ベルの解散から約4ヶ月。
8年前に上がったバンドLIPHLICHが活動休止しました。
わたしがなぜLIPHLICHに行っていたかというと、Dollyの対バンで見て出会い、Dollyと同じ事務所に所属し、Dollyのメンバーと対バンなどをしていたから。
最初はDollyの忘れ形見のようなものでした。
過去に縋り付くようにライブに行き始めたのに結構本気で楽しくなってしまい、本気で大好きになり、そこそこ追いかけていました。
よく浮気からどうですか?って8年前は言ってたけど、本当に浮気から始まり本気になったバンドでした。
10年前の赤坂BLITZのライブで、LIPHLICHは「解散も活休もしません」と宣言しました。
それが「Dollyの忘れ形見」という存在意義をさらに大きくしました。
Dollyも昔「どんな劇的なハッピーエンドがあったとしてもそれを望まない」と永遠を願っていたから。
だからあの時解散じゃなくて活休という形をとったのかなと今でも思います。
解散じゃなかったら永遠だもんね。
結果としてDollyは解散、そして亡霊となったわたしはベルに出会い、永遠の意味を知ることになるのでした。
永遠を望み不変を求めていたわたしにベルの存在はとても大きなものでした。
その永遠論争に一段落着いた頃、そして超特急に解散の危うさがなくなりつつある中で活休を知りました。
解散、活休しないという宣言を直接聞いていたこと、「いつでもいるから気軽に会いに来て」と言っていた言葉に救われ、上がってからも不安になった時に2回ほど名義はジャックザリッパーと久我さんソロ名義だったけど見に行ったこともあり、今更行くのもなーと思いつつ当日券で行ってきました。
3人脱退しても久我さんが喉悪くしていなかった時も久我さんなしでライブをし続けてたくらいに、本当に活休さえもせずずっと走り続けていたバンドが活動休止するってことはのっぴきならない事情があるんじゃないか、って心配もあったり。
実際のところふんわりした理由しかわからなかったし暗くも見えなかったのでなんとも言えなかったけれど。
Dollyの活休が10年続いたので活動休止という言葉に対して信用がないけど、考えてみたらDollyは「奇跡が起きたら」って言ってたなーと思い出しました。
そしてしんみりと幕を閉じたわけではなく、しっかりと未来の話をして終わりました。
そこでベルの解散ライブが頭をよぎりました。
解散で、そこで終わりなはずなのに、なぜかとてもポジティブに思えたベルの解散ライブ。
”全部が終わることもなくなることもない。残るものもちゃんとあるし、得られるものだってあるかもしれない。”というその先の未来も見えるようなライブだったからだろうなと思っています。
LIPHLICHもそうでした。
ベルみたいに確定的なものではないけどちゃんと未来への可能性を残して休止していた。
永遠を作るものは未来で、未来がつづいていくことな永遠なんだ、と思いました。
そんでもってもうひとつ、わたしにとって永遠というのは不変と同意義でした。
変わることが怖くてしかたなかった。
変わりながら続いていくとが理解できなかった。
そんな中、久我さんはわたしにとって不変のシンボルでした。
2011年に初めて見たLIPHLICHも、2016年に上がって2017年に見たジャックザリッパーも2018年に見たソロも、2023年に見た亜樹バースデーのLIPHLICHも、2024年に見た活休前のLIPHLICHも、他の人達はみんな違うのに真ん中には全部変わらず久我さんがいました。
久しぶりという感覚もあまり感じないくらいずっと出会った頃のままいてくれる。
それが希望だったし、でも永遠、不変を求めるわたしには苦しいものでした。
永遠も不変も叶うじゃん、実際叶ってるじゃん、なのになんでみんな変わるの?おかしくない?
なので活休に対して安心しているところもあったり。
変わらない久我さんも変わるんだな、って。
永遠=不変なんてことはないしありえないのに1人の存在がそれを可能にしていたわけで。
でもそんな永遠で不変のヒーローも10年で変わったんだと思うと永遠=不変ではないこと、変わっても永遠というものは存在することとしてDollyの解散を受け入れられる気がします。